<通夜の時の千尋の着物が弔問者の女たちの目をみはらせた。銀鼠色の色喪服の上前の裾に銀糸で蓮の刺繍がしてあり、歩く時、ちらっとひるがえる下前には、観音が蓮上に立っていた。それも銀糸のしっとりとした精巧この上ない刺繍であった。(中略)葬式の日は、千尋は白鷺のような純白の喪服を身につけていた。水晶の数珠の紫の房だけがただひとつの彩りだった。通夜の時も葬式の日も、千尋は一滴の涙もこぼさなかった。>
京都の老舗菓子屋のぼんぼんで、女たらしの放蕩三昧の夫は、若くして心臓発作のため急死します。放蕩の全てを知っていた妻である千尋の装いが非常に恐ろしくて印象深いシーンです。
人の死はいつ来るかわからないものですから、喪服はあらかじめ準備しておくのは当然なのですが、この千尋の装いは、妻という立場でしか身につけることがないもののように思えます。
全てを知り、それを胸の内に秘め、もしかしたらその喪服を着る日を心待ちにしていたのかもしれない……と考えると、千尋の、憎しみなどという一言では片付けられない心情が思いやられ、それが着物だからか私は余計にぞっとしてしまうのでした。